国際成人力調査(OECD-PIAAC)に再び注目!

2013-10-23



少し前の新聞記事ですが、本日「基礎講座」で新聞を使って学習していた時に発見したので、注目しておきます。

読売新聞2013年10月16日(水)の朝刊。
先日調査結果が発表されたOECD-PIAAC(国際成人力調査)についての解説記事です。
編集委員の服部真さんの見解が示されています。

先日PIAACの結果報道の際にも感じていたことが割と的確にまとめられているので、少しコメントをしたいと思います。

この調査で日本は3分野(「読解力」「数学的思考力」「IT活用能力」)のうち2分野(「読解力」「数学的思考力」)の平均点で1位であったというものですが、この結果は日本の戦後の義務教育の成果だと評価されていました。

(※先日調査結果が報道された際にもブログを書いています。こちらもご覧ください)

確かに、調査結果から日本の優秀さの一端は認めることができます。

日本の単純作業従事者は他国の事務職並み、中卒者は、米・独の高卒者(後期中等教育修了者)を上回っているという結果がそれを示しています。

しかし、最上位層では実は日本の結果はぱっとしないんですね。

「読解力」の最上位層の割合で日本は5位。
「数学的思考力」は7位。

この事態に対し、記事では、以前(高度経済成長期)は欧米という明確な目標があり、リーダーが方向を示す必要はなかったが、今は先行事例がない状況のために方向性を見出せる優秀な人材が必要だ、という東京大学の社会人向けリーダー養成プログラムの統括者である横山禎徳氏の指摘を載せています。

確かに、日本の高度経済成長期を支えたのは、方向性を示す「真のリーダー」というよりは能力の高い実務者集団が活躍した時代で、日本の戦後の教育、もっといえば明治の開国以降の近代化の時代も同様の人材が時代に求められていたといえますね。

このあたりのことは、先日のブログでも紹介しましたが、苅谷剛彦さんの「大衆教育社会のゆくえ―学歴主義と平等神話の戦後史 (中公新書)
」に分かりやすくまとめられています。
その他には、天野郁夫さんの「試験の社会史―近代日本の試験・教育・社会 (平凡社ライブラリー)
」や竹内洋さんの「教養主義の没落―変わりゆくエリート学生文化 (中公新書)
」や「日本のメリトクラシー―構造と心性
」などは、いわゆる日本の「学歴主義・学歴社会」というものの成立背景やその内実について知ることができます。

さらに、記事で問題視されていたのは、日本は社会人教育や訓練への参加率が低いことです。

学校で学んだことが実社会ではすぐに「古い」情報になる、「知識基盤社会」と言われる現代においては、常に知識をアップデートすることは必須であります。

しかし、日本人は(その多くは)学校の勉強が修了し、社会に出たら(就職したら)学習を継続させるということが諸外国に比べれば少ないようですね。

それというのも、私は日本の学歴社会や入試など、ざっくり言ってしまえば「テストのための学習」があまりにも幅をきかせているからこそ起こっていることのように思うわけです。

学習の習熟度等を測るため、つまり学習の手段であったはずのテストが、いつの間にか、そのテストで結果を残すことが目的となってしまった
手段と目的の転倒が起こり、テストで結果を残し、希望する進路が得られることが学習・進学の目的となってしまう。
そこで学ぶ内容は実は二の次三の次だったりもする。

実体験ですが、私が高校生の時の進路指導のこと。
(進路指導とは名ばかりの大学進学指導でしたが…)

まず聞かれるのは「理系」か「文系」か。
しかも、男は理系に行けという「ありがたい」助言つき。

それに反し「文系」と申し上げると、
間髪入れず「じゃあ、法学部や経済学部だな」とほぼ二択に絞られる。

「え?僕、文学部を受けるつもりです」なんて言った日にゃあ、
「文学部なんか行ってどうする!就職できないぞ。法か経に行けばつぶしがきく」などとウソか真かそんなありがたいお説教を賜る。

それでこっちも意地になって「絶対文学部に行きます」なんて言おうものなら、
「じゃあ、偏差値○○以上の大学に行きなさい」というふうになる。

あれ?
進路って自分で決めてはいけないんだっけ?

まぁすべての高校でそういった指導がなされているわけではないでしょうが、
しかし、個々人ではなく、学校自体が、しかもその多くがそうした進学実績を
過度に気にしているという状況は現にあるといえるでしょう。

そうなると、「なにを学びたい」とか、「どんな環境で学びたい」とか「どんな先生に教えを請いたい」とか、そういう純粋な学問する心、知的好奇心などは、あまり顧みられなくなってしまう。
もちろんオトナとして、後輩である子どもたちに助言することが悪いわけではない。
むしろまだ経験値の少ない子どもに伝えるべき情報はたくさんあるでしょう。
また、オトナは子どもたちに対して、今よりも、自分たちよりも「幸せ」になってほしいと思っていることでしょう。

さらに言えば、どんなことであっても経済的な観点が欠落していては生活自体が成り立たないということもありますので、純粋に好きなことだけやって生きていけばいいじゃん、とはさずがに思いません。

とはいえ、さすがにひどいと思いませんか?

こうやって学校や入試のような磁場にからめとられ、日々の学習は何のためにやっているのか、日々の学習で学んでいる事柄にどんな意味があるのか、そんなことが問えなくなっていってしまうわけですね。
そうして大学など最終学歴となる学校を卒業し、無事にオトナの仲間入りを果たしたら、あのクソつまらなかった学校での「勉強」という義務を正式に手放すことができるわけです。
そうなったら何も自分から苦しい、嫌な「勉強」の場にまた自分を戻す必要は感じられないでしょうね。

「勉強する意味はよく分からない、でも、成績は良い」

実はこの特徴、日本のオトナだけでなく、子どもたちにも同様の特徴がみられます。
詳細はOECD-PISAの質問紙調査の結果でご確認ください。
参考URL:http://www.nier.go.jp/kokusai/pisa/

成績は良いのに、そもそもなぜ勉強しているのか分かっていないって、
実はとっても不思議なことですよね。

嫌だ嫌だと言いながらも、結局は勉強してそれなりに能力が高い、でも、その能力が「なぜ必要なのか」とか「どう活かせば良いのか」などということにはほとんど無頓着。

これって何だか恐ろしいことではないですか?

だからこそ、これからの子どもたちには「学ぶこと」それ自体がきちんと価値あることだと認識して学んでほしい。
日々の学習にどんな意味があるのかを考えられるように学んでほしい。

ほんとこの手の話題が出てくると、切にそう願わずにはいられないのです。

みなさんはどうお考えになられますか?

(偏差値等が)良い学校に入っておけばそれで良いと思われますか?

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